外部記憶

他人に取って価値がないが、自分が忘れることに忍びないため残したい記憶・記録を記す外部記憶装置

1時間前に祖父が他界した

80歳を超えた大往生だった。

母親いわく典型的な昭和の頑固オヤジだったらしいが孫の僕には常に優しい祖父だった。 ひ孫をその手に抱かせてやれなかったのが心苦しい。 戦争の記憶を持つ最後の世代だった。 苦労したという話はほとんど直接聞くことはなく、戦争の話も1度以外は聞いたことがなかった。母から間接的に聞いたことは、祖父が漬物の匂いまで嫌うようになった理由は戦争時代が関係するらしい。

祖父からたった一度だけ聞いた戦争の話は、戦後朝鮮半島出身の親友が故郷の北朝鮮へ帰ってしまったこと、それ以来一切連絡が取れなくなってしまったこと。

僕の中では厳格だが優しい祖父だった一方、娘の母からはドリフターズのとても下品なショウにゲラゲラ笑う、そういう一面もあったらしい。

普通の祖父だった。僕は幸せな孫だった。

REDLINE 感想

amazon musicでやたらとおすすめされることをきっかけに視聴。

主演声優が木村拓哉ということでだいぶ見る気をそがれたが、結構良かった。 キャラデザは格好いいし強い勢いと確かなアニメーションで見られる娯楽になっている。 あらを突けばきりがないがエンターテイメントとしての質は高い。

音楽の質が抜群に良いことには言及したい。

祖父が危篤状態になった

父方の祖父は数年前に亡くなっており、今回危篤状態になったのは母方の祖父だった。

母方の実家は商店をしており、僕が中学校に上がる頃にはすでに商売をやめていたが、家の一部が商品棚であったり広いスペースがあったりで子供の頃行くと非常にワクワクしていたのを覚えている。

祖父はいかにも昭和の親父といった人であったらしく、厳格な印象を僕も持っていたが孫の僕たちには非常に甘く、怒っていたところをみたことがなかった。 自分の母も割とたくましい人なのだけど、その父親であったことが納得できるような広い肩幅とマッシブな体つきだった印象がある。 それでも年2回家族で会いに行く程度ではそれほど話たりすることもなく、自分が祖父についてその生い立ち含めて知っていることはほとんどない。最後に会いに行ったとき、みんなで食卓を囲んだときにふと親友が故郷を支えてくると言って今の北朝鮮へ帰郷してしまい、そのまま音信不通になってしまったとこぼしたことぐらいだった。あとは商売をやっていたためか経済に強く関心があったりシビアな経済感覚を持っていたことぐらいで、新しい自宅を経てて古い自宅を人へ貸したときに賃料を安くしすぎたとこぼしていたことを覚えている。

個人的に印象深いのは祖父の作業机だ。その自宅の店側サイドより少し引っ込んだところの階段下へ祖父は作業机を設置していた。 そこにねじ回しやかんななど大工工具をたくさん備えており、ノギスやそれらを使ってものをよく作ったりしていたらしい。 僕にはそこが秘密の作業部屋に思えてとても好きだった。 親族の中でエンジニアは一人もいなかったので、最も自分と近い性質を持っていたのはもしかしたら祖父だったのかもしれない。

救急車で運ばれたと聞いて慌てて帰った実家で4,5年ぶりぐらいにあった祖父はびっくりするぐらい小さくなっていたように見えた。 ICUではないものの一人部屋の病室で鼻と心臓へチューブを繋がれており、まさに明日どうなるかわからないといった容貌だった。 最初本人だとわからなかったぐらいだ。 もうこのまま起きないのではないかと思えた。 ショックだった。 肩幅など僕の記憶していた半分ほどになってしまっており、体は枯れ木のようだった。 あの力強い手と肩、頑固そうな顔をした祖父はもうどこにもいないようだった。

あとから到着した母が直系親族らしい大きな声で乱暴に起こすとその瞬間元の祖父らしい矍鑠とした声が戻った。 相変わらず頑固そうで、でも僕たち孫には優しい自分の祖父がそこにいた。 もう何度もこういった場面を迎えていたであろう家族の中で僕だけが泣いていた。 母親がそこで取り出したのは祖父が僕にくれる時計で、そこには半年前の日付が書かれた付箋がついていた。 祖父はもはや記憶が混濁しており、今ここが正確にどこでなぜここにいるのかがわからないようだった。 そんなかでも僕たち孫のことはきちんとわかっていた。本当に、もっと早く来ればよかった。 その後僕たち兄弟はすぐ家へ帰ったが、母はそこから数時間祖父の世話をしていたようだった。 60歳を過ぎて未だ仕事をしながら祖父の世話をずっと続ける、母は本当に強いひとだった。

翌日、もう一度家族全員で会いに行った。 祖父は記憶が混濁しており、やはりここがどこかはわかっていないようだった。 母親はそれでも力強く、みんな集まっていることを伝え、みんなで写真を取る。 みんなでいたのは5分程度の時間で、しきりに祖父はさあ行こうとどこかへ向かおうとしていた。 祖父の魂はもうここではなく、故郷の和歌山にあるようだった。

家族の中で、涙ぐんでいたのは僕だけだった。 東京に戻る電車の中で涙が抑えられなくなり必死に嗚咽をこらえて静かに泣いた。 たぶん母にも何度も涙した夜があったのだろう。他の家族は、もはや出る涙も枯れてただ静かに行く末を見守っているようだった。 母は以前従い親が先に行くことは悲しいことではない、それが自然の摂理だと言っていた。 全然そんなことはなかった。新幹線へ揺られて帰ってきた今も嗚咽が止まらない。 これが、親族が、今まさに死のうとしているということか。 自分の血につながる家族が死ぬということか。 母も、たぶん自分へ言い聞かすように、僕たちへ心配をかけさせないためにそういっていただけなのだろう。

残り短い祖父の時間の中で、僕ができる最大のことはなんだろうか。

病室を退室するとき、思わず握った祖父の手は驚くぐらい力強く、とても今日明日がわからない人間の手とは思えなかった。 声も、表情も、その目も昔の祖父を思い起こさせたが、何よりその手だけは本当に昔の祖父の手のようだった。

アメリカのゴジラ映画感想

渡辺謙が出てるやつ。

日本のフィクションでアメリカが悪者にされてるの嫌いなんだがこれも微妙にそんな感じで若干嫌。

後半海兵隊が従来の自衛隊の代わりにどんぱちし始めるのは良いようなそうでもないような。

退職エントリ的なもの(1年ぶり2回目)

退職エントリ的なもの。

前回の退職は敗北感いっぱいだったので退職エントリを書く余裕もなかったのですが、今回は十分余裕ある精神状態の段階で退職したためブログに書ける程度の余裕があります。 前回が全滅遁走だとすれば今回は大敗北からの撤退といった感じでしょうか。 前回の退職と比較をすると、本当に転職はまだ余裕があるときにするべきだと痛感しました。 会社のためと自己犠牲精神を起こしても自分のためにも、なにより会社のためにもなりません。

今回会社にいた期間は1年3ヶ月ほどで、その前が6年2ヶ月ほどだったことを考えると短いようですが1つの敗北を認めるには十分な期間でした。

以前の会社ではフロントエンドからバックエンド、インフラ、クラウドソーシャルエンジニアリングまでいろいろやっていたんですが今回はほぼほぼコードを書き続けた1年でした。もちろん設計やサービス開発・運用上の意思決定などにも参加していたのですが、どちらかというとコードをよく書いていたと思います。

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これはメインプロダクトのgitリポジトリの個人statです。コード修正量はファイルの移動や一部のstat出力も含まれているので当てになりませんが、だいたい1日平均4コミットぐらいはしていた計算になります。一部落ち込み区間は別のリポジトリで作業していたので、それを加えると1日5コミットぐらいはしていたんではないかと。 実際コードをいじらない日はほとんどないくらいで、前職でしばらくコーディングから離れていた身としては非常に楽しく仕事が出来ました。 また、akka-httpやserverlessなど一部のOSSへのcontributeも許可していただき、普段使っている中で見つけたバグ・機能追加要望などをPull Requestできたのは非常によい体験でした(特にakka-httpでは 1. 開発中に問題を見つける 2. 回避策をプロダクトコード中で実装 & 本家へPR送信 3. PRアクセプトされる 4. akka-httpの修正が取り込まれたバージョンがリリースされる 5. akka-httpをバージョンアップして不要になった回避策を削除 というサイクルを2度も行うことができました!)。

どのくらいコードを書いていたのかもう少し詳しい値を出したいと思って調べてみました。 まずプロダクト全体としてはScalaで約33,000行ぐらいあります。

find . -name "*scala" -type f | xargs -L 1 git blame | grep -E "(kazufumi|nishida|bigwh)" | wc -l

そのうちこれで自分が書いた行で現在のプロダクトコードで使われている行を出すとほぼちょうど2万行でした。 同様の方法で計算するともう1人のエンジニアの方で9,400行、すでに退職された方で4,000行なので妥当なラインかと思います。 実際のところリファクタリングや設計改善の中で消えていったコードがかなり有るので、実際に書いたコードはこの2倍以上はありそうですね。 僕が作成者のPRが430個あったので、僕自身の純粋なコードアウトプットは15ヶ月で430PR 4万行程度とすると 1日平均1.3PR 122行追加 + α1になります。 これは結構書いているんじゃないかな(イキリ。

最後に謝辞を。 この会社には本当に感謝しています。割とボロボロだった前社退職時からこの会社に入ることでコーディングの楽しさや開発の難しさを再確認したりスクラム開発の試行錯誤をすることができました。


  1. リポジトリが計算に入っていないため