外部記憶

他人に取って価値がないが、自分が忘れることに忍びないため残したい記憶・記録を記す外部記憶装置

祖父が危篤状態になった

父方の祖父は数年前に亡くなっており、今回危篤状態になったのは母方の祖父だった。

母方の実家は商店をしており、僕が中学校に上がる頃にはすでに商売をやめていたが、家の一部が商品棚であったり広いスペースがあったりで子供の頃行くと非常にワクワクしていたのを覚えている。

祖父はいかにも昭和の親父といった人であったらしく、厳格な印象を僕も持っていたが孫の僕たちには非常に甘く、怒っていたところをみたことがなかった。 自分の母も割とたくましい人なのだけど、その父親であったことが納得できるような広い肩幅とマッシブな体つきだった印象がある。 それでも年2回家族で会いに行く程度ではそれほど話たりすることもなく、自分が祖父についてその生い立ち含めて知っていることはほとんどない。最後に会いに行ったとき、みんなで食卓を囲んだときにふと親友が故郷を支えてくると言って今の北朝鮮へ帰郷してしまい、そのまま音信不通になってしまったとこぼしたことぐらいだった。あとは商売をやっていたためか経済に強く関心があったりシビアな経済感覚を持っていたことぐらいで、新しい自宅を経てて古い自宅を人へ貸したときに賃料を安くしすぎたとこぼしていたことを覚えている。

個人的に印象深いのは祖父の作業机だ。その自宅の店側サイドより少し引っ込んだところの階段下へ祖父は作業机を設置していた。 そこにねじ回しやかんななど大工工具をたくさん備えており、ノギスやそれらを使ってものをよく作ったりしていたらしい。 僕にはそこが秘密の作業部屋に思えてとても好きだった。 親族の中でエンジニアは一人もいなかったので、最も自分と近い性質を持っていたのはもしかしたら祖父だったのかもしれない。

救急車で運ばれたと聞いて慌てて帰った実家で4,5年ぶりぐらいにあった祖父はびっくりするぐらい小さくなっていたように見えた。 ICUではないものの一人部屋の病室で鼻と心臓へチューブを繋がれており、まさに明日どうなるかわからないといった容貌だった。 最初本人だとわからなかったぐらいだ。 もうこのまま起きないのではないかと思えた。 ショックだった。 肩幅など僕の記憶していた半分ほどになってしまっており、体は枯れ木のようだった。 あの力強い手と肩、頑固そうな顔をした祖父はもうどこにもいないようだった。

あとから到着した母が直系親族らしい大きな声で乱暴に起こすとその瞬間元の祖父らしい矍鑠とした声が戻った。 相変わらず頑固そうで、でも僕たち孫には優しい自分の祖父がそこにいた。 もう何度もこういった場面を迎えていたであろう家族の中で僕だけが泣いていた。 母親がそこで取り出したのは祖父が僕にくれる時計で、そこには半年前の日付が書かれた付箋がついていた。 祖父はもはや記憶が混濁しており、今ここが正確にどこでなぜここにいるのかがわからないようだった。 そんなかでも僕たち孫のことはきちんとわかっていた。本当に、もっと早く来ればよかった。 その後僕たち兄弟はすぐ家へ帰ったが、母はそこから数時間祖父の世話をしていたようだった。 60歳を過ぎて未だ仕事をしながら祖父の世話をずっと続ける、母は本当に強いひとだった。

翌日、もう一度家族全員で会いに行った。 祖父は記憶が混濁しており、やはりここがどこかはわかっていないようだった。 母親はそれでも力強く、みんな集まっていることを伝え、みんなで写真を取る。 みんなでいたのは5分程度の時間で、しきりに祖父はさあ行こうとどこかへ向かおうとしていた。 祖父の魂はもうここではなく、故郷の和歌山にあるようだった。

家族の中で、涙ぐんでいたのは僕だけだった。 東京に戻る電車の中で涙が抑えられなくなり必死に嗚咽をこらえて静かに泣いた。 たぶん母にも何度も涙した夜があったのだろう。他の家族は、もはや出る涙も枯れてただ静かに行く末を見守っているようだった。 母は以前従い親が先に行くことは悲しいことではない、それが自然の摂理だと言っていた。 全然そんなことはなかった。新幹線へ揺られて帰ってきた今も嗚咽が止まらない。 これが、親族が、今まさに死のうとしているということか。 自分の血につながる家族が死ぬということか。 母も、たぶん自分へ言い聞かすように、僕たちへ心配をかけさせないためにそういっていただけなのだろう。

残り短い祖父の時間の中で、僕ができる最大のことはなんだろうか。

病室を退室するとき、思わず握った祖父の手は驚くぐらい力強く、とても今日明日がわからない人間の手とは思えなかった。 声も、表情も、その目も昔の祖父を思い起こさせたが、何よりその手だけは本当に昔の祖父の手のようだった。